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  • 2007.08.26 Sunday
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ネパール・カレー

最近、ネパールのカレーにはまっている。
今日も、阿佐ヶ谷のクマリで、ホウレン草とマシュルームのカレーを食べた。
ネパールのカレーといっても、基本的にはインドと共通する部分が多いようだ。
例えば、クマリのメニューと、先日まで通っていたインド・カレー屋の、バンダリのメニューを比べると面白い。

バンダリでクチュンベル、サラダと言っていた野菜サラダが、クマリでは、カチュンバル・サラダというメニューになっている。チキンのカレーとマトンのカレーがあり、チキンと野菜のカレーなら、「チキン・ど・ピアザ・カレー」となる。
この点でも、インド・カレーと同じである。
しかし、ネパール・カレーは、全体にさらっとしていて、軽やかな味だ。
インド・カレーのしつこさがない。
そこがすばらしい。
また、香辛料も、ネパール独自の物があるようだ
ちなみに、ネパール語で「ありがとう」は、
「タンニエ・バート」と言うそうだ。
「タンニエ」と高く発音し、「バート」と下げる。


 

ハーブ

最近、ハーブを見つけては買ってくる、ということを繰り返している内に、気がつくとずいぶん増えて、おき場所に困るほどになった。
 元々家のベランダではローズマリーを育てていたのだが、
ここのところは待っているのは、オレガノとタイム。
この二つは、調味料としても使えるし、そのままサラダにかけても美味しいのだが、
お茶にすると、また格別だ。ローズマリーと三つ合わせてもいい。
エルダーフラワーは、あまり香りはないが、コクがある。これを、上記のどれかと組み合わせるのも楽しい。
 胃に良いと言われるネトル、そしてスギナもいいコンビだ。
快眠を誘うと言われるバレリアは、かなり個性が強く、なかなかなじめないが、少量ならば面白い。
レモングラスやレモンバーベナなどと混ぜると飲みやすくなる。
これらのハーブを毎日違う取り合わせで飲みながら、カボチャの種をかじる、というのが、
この一ヶ月ほどの私のお八つになっている。

底無しと底有り

縄文の話を続ける。縄文土器は殆ど例外なく円形の器である。(実はその例外と言うべき四角い刺身小皿のような器が、今回のコレクションに一つだけ含まれていた。一応勝坂土器、つまり3500年ほど前の物だそうだ。)
 土器の大きさはこれまた実に多様で、一抱えもあるような、盥のような物から茶筒程度の、手のひらに乗るサイズまで在る。
そして、それらの土器に底がある物と無い物があって、これが一つの謎とされている。底の有る土器は、やはり鍋とか釜とか、そういう煮炊きに使われた可能性が大きい。なぜなら、器の内側が殆どかならず滑らかに整形され、漆を塗ったものまであるからだ。内側が滑らか、ということは表面積が最低限ということで、水を熱する場合気化熱を失いにくく、効率がいい。或いは、これらの器は何かを保存する入れ物に使われたものかも知れない。ワインを醸すための器と推測される物も出ている。しかし、底の無い器の用途は何だろう。
私を縄文の世界に導いてくださったTMさん、実は森山哲和さんとおっしゃる考古造形家である。彼は現在、池上の弥生時代の住居跡を復元して、わら屋根の部分など今は失われてしまった箇所を想像で補いつつ完成するというプロジェクトに取組んでおられる。
 その森山さんは、この底無しの縄文器が、当時の住居の出入り口辺りに埋めてあったという事実を強調された。埋め甕と呼ばれているらしい。そして、それは何と墓であり、その埋め甕の下に死骸が葬られていたのだという。
日本の当時の土が珪酸性であったために、人間や動植物の体は残りにくい。しかし、いろいろな状況からそれが墓の跡であったことが推測されるのだという。
そして、彼によれば、底の無い甕は、死者の魂が天と行き来をするためのものだと言うのである。これには私も驚いた。甕を埋める場合、上に広がるように埋めるのを埋め甕と言い、上がすぼまる様に埋めるのを伏せ甕と言うそうだ。伏せ甕の場合、ちょうど植木鉢のように、底に小さな穴が開いている物もあるらしい。
「ここから魂が天へ行くんですよ」と森山さん。そして、彼が付け加えるには、最近研究が進んでいる古代日本語では、たましいという言葉は、たま(天)としい(地)の合わさった物なのだそうだ。
この古代日本語というのは、古事記の原型である「さかさ文」という書物に使われている言葉で、それはほずま文字と言われる古代文字で書かれている。その文字は、「縦縦横横、円書いてちょん」というような文字だ、と森山さんは実際に手を動かして説明してくださった。
とすると、縄文土器の上に掘り込まれ、或いは紐粘土で描かれている模様と同じではないか。「だから、この模様はメッセージ、物語なんですよ」と森山さんは興奮する。
確かに私もこれらの土器の全体から溢れるメッセージ、というか作者の意思、魂の激しさを感じ、その世界に引き込まれているのだ。で、これが何らかの物語を表した物だとして、なぜ古代人はそれを必ず器にしたのか。エジプト人のようにパピルスに書いたり石に彫ったりすることもできたのではないか。
縄文人の石器製造技術は実に巧みなもので、今回のコレクションにも石の鏃や石斧、石の鑿、石の鏨などが含まれており、それも触らせてもらった。石のブローチ、イヤリングなどもあり、その細工の巧みさは信じられないほどのものだ。
彼ら古代人は石に彫ろうと思えば簡単にできたはずだ。何か彼らには円形の器にこだわる理由があったのかも知れない、と私は思った。円形にすることで、何かの霊力が宿る、といった風の発想はあり得るだろうか。
(続く)

縄文土器の装飾はバロック音楽

縄文土器には一般に派手な装飾が施されている。火炎、と呼ばれるあの意味不明の突起物にしても一種の装飾と考えられている。
ところが、その装飾はけっして取って付けた物の酔うには見えない。我々には意味不明であるが、何か強烈なメッセージを発していて、しかもそれが本体の器と切っても切れない関係、つまり有機的に溶け合っているのだ。
この感じはバロック音楽の装飾と似ている。バロックの装飾も実に派手だ。ダングルベールのあるオルガンフーガなどは全ての音に装飾記号が付いているほどだ。こんなものは殆ど演奏不可能とさえ思える。
バッハの鍵盤用カンツォーナもそれに近い、装飾過多とも思えるようなヴァージョンがある写本に残されている。
我々には過多と思えるのだが、それは我々の装飾観が当時とずれているからなのだろう。
音楽と一体不可分となり、曲の一部となってメッセージを発するような装飾音、どこまでも生き生きとした装飾音の扱い方に慣れることが求められている。
18世紀フランスの、フルートの名手であったジャック・マルタン・オットテールもその「フルート奏法」の中で、「全ての音に装飾を付けなさい」と言っている。
この場合の装飾という言葉は大変広い意味で用いられており、ヴィブラートやクレッシェンド、ディミニュエンドメッサ・ディ・ヴォーチェなども一種の装飾と考えられていたから、これはけっして理不尽な要求ではない。むしろ音楽にとって不可欠な表情として理会される。
これが、古典派以降になると、装飾はだんだんアカデミックな物、そしてどことなく違和感のある物になっていくのだが、この点も古代日本の歩みと似ていて、やはり弥生時代の土器に見られる装飾は、何となく取って付けたような感じがするのである。

縄文土器触考

昨日は、一日かけて、縄文土器の世界に遊んだ。場所は小金井市の静かな住宅地にある文化財展示場。元はさるお屋敷であったところ。
そこに150点余りの縄文土器が展示されている。実はこの展示会は、昨年の12月末までのもので、今は次のイフェントのための準備期間とのこと。そこを、友人のTMさんのお取り成しで、特別に入れて貰い、「触ってもいいですよ」ということになったのだった。全く感謝に耐えない。
TM さんは既に30年以上、考古復元の仕事に人生を捧げてこられた、ベテランであり、権威者であられるが、いつお会いしても、夢を語る少年という印象は変わらない。
 さて、今回のこの展示会では、やく3500年〜2600年前に到る900年間に作られた土器が、数十年単位の細やかさで分類されてずらりと揃っている。この900年間というのは、縄文中期末葉から後期にかけての、我々素人が見てもいちばん面白い土器が作られた時期である。そう、形の多様さと個性において抜きん出ていると言われる勝つ坂土器の時代から、あの火炎土器と呼ばれている、何とも奇妙な装飾を施された器、加曾利E式の時代にかけての、実にわくわくする900年だ。縄文時代は1万3千年以上前から2400年前辺りまで続いた途方もなく長い文化時代で、五つ或いは六つの時期に分けられるが、さらにそれぞれが細かく区分され殆ど20年刻みで土器の変遷を跡付けられるという。また、地域的には、北海道中部から沖縄にかけての広がりを持つが、これもまた、各々の地方による違いが細心に分類されている。例えば、土器の淵から躍り上がるようなあの「火炎」の具合から見て、仙台から東京にかけては同じ文化圏であったらしい。中でも、小金井市の周辺は「縄文銀座」と言えるほどの豊かな埋蔵地なのだそうだ。
 まあ、こういうことを私のようなものがいくら書いても受け売りの羅列になってしまう。私はTMさんのおかげで、縄文土器に魅せられ、それにはまって既に10年。これらの土器は実に音楽的だ、という気持ちを深くしている。まずは、全体のフォルムである。ほぼ完全な、つまり、何の変哲もない円筒形から、「何でここまで!」と嘆じたくなるほどの、エンタシスの柱の上に茶碗が乗っかって、さらに最上部が内側に鋭角で曲がっているような物まで、実に様々で、一つとして同じ形は無い。それもそのはず、これらの土器は全て手でこねた物、つまり、轆轤を使わずに作った物なのだ。輪形の粘土の紐を積み重ねて作るものらしい。それを触っていると、人間の手に馴染むように、幾分歪むというか、完全な円ではない。それが、ずどんとした円筒であれ、どんぶりの様に上広がりであれ、そこに生き生きとしたリズム感があるのだ。造形の潔さ、と言おうか、形が発するメッセージの強烈さと言おうか、とにかく、私などしゃがみこんで土器を触っていると何時間も飽きず、時を忘れてしまう。作り手の気持ちがこれほどストレートに伝わってくるという物はめったに無い。例えば、縄文時代の後に来る弥生時代の土器を触っても、そういう感動はあまり起こらない。器がその果たすべき機能の中にきちんと治まっていて、それはそれで美しいのだが、時間を突き抜けて来るようなメッセージは感じられない、ということが多い。それが、縄文、特に中期のそれは、そのまま現代美術、前衛工芸としても鑑賞できる物なのである。
 (続く)

異星人

楽器をさらっていると、頭の方もフル回転するので、いろいろなことを考えてしまう。で、それらをできるだけ書き込んでしまおうというのが、この部ログの目的だ。
で、異星人のこと。
いったい、この宇宙には我々の他に知的な生命体は存在するのだろうか?。
スタートレックにはこれまた不安になるほどにたくさんの宇宙人が登場する。その多くが余りにも人間に似ている。この理由は明らかで、たぶん撮影経費の問題なのだろう。耳のとがったバルカン人、額の突起したクリンゴン人、身体中に斑点のあるトリル人など、結局一つだけ変わった特徴を持ってはいるものの、後はまったく人間と同じ、という異星人が殆どなのだ。これであれば、メイキャップにもそれほど費用はかからず、それでいて何人かがすぐに判別できる。製作側にとっては手っ取り早い解決だが、見ているこちらとしてはちょっと白ける。
 例えば、日本のいくつかのSFでは、宇宙には我々以外に知的生物はいないという立場を取っている。(銀河英雄伝説など)これもまた製作側にとっては経費が安くてすむので、その分を戦闘シーンなどの特殊効果に回せる、というものだろう。
私は、やはり宇宙のどこかに我々の仲間が居るに違いない、とは思う。しかし、スタートレックに出てくるほど都合の良い大きさと形の異星人ばかりではないだろうし、それほど多くの種類が、現在我々と同時に、ほぼ似たような文明を発達させている、というのもありそうにないと思う。
我々に想像もつかないようなユニークな形態や、我々には認知できないような存在様態を持った「知性」はあり得るのではないかと思う。これに関しては、いろいろなケースを考慮せねばなるまい。例えば、我々の宇宙が、最先端の物理学者たちが言うように9次元とか10次元を持つとすれば、5次元生命体や8次元生命体がいても良さそうなものだ。それらの次元は、我々が感知できない、プランク定数より小さな空間に巻き込まれているというのだから、そこに住む生命体は、質量は大きくても、大きさは殆ど零に近いのだろう。
そういう生命体とはどんなコミュニケーションが可能なのだろうか。ここは創造力を要するところだ。

スタートレック

私にとってSFは世界観、宇宙観の表現であり、科学と思想の融合、または融合し損なった物であって、その両方が面白い。
 中でも、スタートレックの六つのシリーズはどれも我を忘れて見入った。(最新シリーズである『エンタープライズ』は現在日本で第3シーズン放映中。)
初代のスタートレックが製作されたのは1964年で、その後間もなく日本にも上陸した。私の小学生の頃で、すぐに夢中になった。スタートレックはとにかく規模が雄大だ。20世紀から25世紀、エピソードによっては29世紀までに及ぶ人類と宇宙の未来が語られ、舞台は銀河系の四つの宇宙域に跨る。そして、私が特に好きな点は、数あるSFの中で、スタートレックが殆ど唯一、人類の未来に対して肯定的、時に楽観的なほどの展望を持っているところである。
 また、スタートレックでは科学の最先端の話題ができる限り真面目に、時には興味本位に取り上げられ、そのことで専門の科学者たちが議論を戦わせている。ファンは実に世界中に広がっており、私のスウェーデンの友人、スーパー管楽器奏者のスヴェン・ベリヤーも、ドイツ語吹き替えによるスタートレックの愛好者である。スタートレック百科事典を始め多くの本が書かれ、、スタートレック博物館もある。一つの文化、 と呼びたいほどの広がりと深みをスタートレックは持っているのだ。
スタートレックによって提起された問題は多岐に渡る。特に科学ネタは興味深い。例えば、スタートレックでは最初から、移動手段として転送機が登場した。これが発明されたのは22世紀半ばということなので、23世紀を描いた初代のスタートレックでは当たり前の道具となっているわけだが、現在放映中の『エンタープライズ』は22世紀の話し、つまり、発明されて間もなくのことで、乗組員たちは気味悪がってできるだけ転送機を避けているように見える。
しかし、転送機は本当にあり得るだろうか。原理は、物体に転送光線を照射すると、物質がエネルギーに変換される。そのエネルギーを電磁波のようなビームで離れた場所へ送り、そこで再物質化させる、というもので、本当にあったら大変便利な物だろう。転送可能距離も何万キロ単位であり、一度などは何万光年も離れた星雲から転送される話があったほどだ。
しかし、これはどうみても実現しそうにない。なぜかというと、一度エネルギーに変換した物質を再び実体化させるそのとき、元の物体の分子構造、電子の配置、あらゆる量子的な揺らぎまでも含めて再現しなければならない。人間のような高度な脳を持った生物を転送する場合、もちろんその記憶や感情のあり方まで、忠実に記録して再現してもらわなければならないだろう。記憶や感情のメカニズムは未だ解明されていないが、それが電子や核子の位置関係だけで決定できるものなのだろうか。まあ、例えそうだとしても、人間一人分の全ての情報をデータ化するにはどれだけのメモリーが必要なのだろう。ある説によると、われわれを構成している諸要素の情報を数量化するとそれは宇宙中の原始の数と同じぐらいになるという。それを転送装置は一瞬にして記憶し、また、再現できなければならないのだが、それはちょっと考えても不可能である。第一、人間一人の質量をエネルギーに変換するとすれば、それは膨大なものとなる。E=MC^2によって与えられるその値は、星一つを焼け野原にできるほどのものだ。それだけのエネルギーを安全に管理し、離れた場所へ送り届ける、ということも、不可能とは言わないまでも大変難しく、事故の危険性が余りにも高い。
 スタートレックでの最先端の転送機は、『ヴォイジャー』の物で、サイト・トゥー・サイト転送などというかなり繊細微妙な技も可能になっている。が、いくつものメイン・スキャナーの他にやはりいくつかのサブスキャナーを必要とし、転送ごとにかなりのエネルギーを使っているように見える。その最先端の装置でも時々不幸な事故が起こる。二人の人間が合体してしまうのだ。『ヴォイジャー』の登場人物中最も対照的な性格の二人、ニーリックスとトゥボックが転送中に合体し、性格も一つになる。真面目なのに冗談も巧く、知識が豊富で情も厚い、正に理想的な人間トゥービックスが生まれるのだ。このエピソードは面白かった。結局ジェインウェイ艦長はトゥービックス本人の件名の抗議にも関わらず、再び転送機に送り込んで、元の二人に分離するように命令する。せっかく生まれた理想的な人間トゥービックスは消えてなくなり、元の、かなり偏った性格の二人に戻るわけだ。
まあ、やはり、ここに転送機があったとしても、私はあまり使う気にはなれないだろう。
(続く)

芥川龍之介

最近芥川にはまっている。芸術家の悩みについてこれほど真正面に向き合っている人だったとは、実に最近になるまで知らなかった。
 例えば、晩年の傑作「河童」には河童の国を代表する二人の大音楽家の話が出てくる。一人は情熱的な努力家で、常に自分の才能を磨き、苦闘しつつ作曲し、哲学を論じ、憂さ晴らしとして何人かの恋人に当り散らしたりするようなタイプ。もう一人は、実は直接は出てこないのだが、典型的な天才で、努力などはせず、自分にできることだけをやっている。それでいて、常に誰にもできないようなことをやり、涼しい顔をしている。こちらの方も女にはもてる。そして、努力家はいつも、この天才のことが気になって仕方がない。その様子が、何というか実に格調高く描かれているのだ。
 「地獄変」には、芸術のためには、人情などに一顧もしない、という画家が出てくる。彼は地獄の有様を描こうとして苦しんだ末、結局生きた人間を焼き殺してみなければ、という思いに取り付かれる。これを知った彼の雇い主が、彼が何よりも大事に育てた娘を捕らえて、火の中で焼け死んでいくところを、親である画家に見せる。それでも、画家は最後までそれを見つめて動かず、娘は死ぬ。画家は世にも凄まじい地獄の絵を仕上げる、という、何とも恐ろしい話だが、これが、その雇い主の屋敷に使えていた奉公人の、謙虚で低調な柔らかい言葉で語られるのだ。内容のおぞましさと文体の品の良さが独特なバランスを作っている。
 芥川最後の連載「シュジュの言葉」には、彼自身のさまざまな苦悩、屈折がユーモアと皮肉によって、何重にも鎧われて語られる。ここでは、全ての文章が警句になっていて、時として余りにも無愛想で説明不足とも思えるほどだ。ここに見られる芥川の博覧強記はどうだろう。控えめに見ても、彼は英独仏露の言葉には習熟しており、それらの国の代表的文学には原語で親しんでいたように思える。そしてもちろん、中国やインドの古事もふんだんに出てくる。読んでいるとどうしても、少し学を誇っているような印象を拭い去れない。
ここで彼は「神にできないことは、自殺することだ」というような言い方で自殺を肯定しているのだが、まあこれほどに悩んだ人ならば、と同情したい気持ちにもなる。その文章には芥川の血が通っており、だから、それを傷つければ、痛みと共に血の匂いがしてくるかのようだ。
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