スポンサーサイト

  • 2007.08.26 Sunday
  • -
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

一定期間更新がないため広告を表示しています

クレッシェンドとディミニュエンド

コメントをいただいて、納得した。
たとえば、私が友達と別れて、電車に乗るとする。この時、電車の扉が閉まれば、もう友達の声は聞こえない。声が聞こえなければコミュニケーションは無くなる。コミュニケーションが無くなれば、私にとってその友達は消え去ったも同然である。
これが、もしも見えていれば、手を振る友の姿をずっと見えなくなるまで見続けることができる。ディミニュエンドで彼(彼女)は去っていくのだ。盲人には確かにその部分の体験が欠落している。
クレッシェンドについてもこれと同じで、遠くからだんだん近づいてくる相手が見えないと、いきなり声をかけられて驚くことになる。スビト・フォルテである。
普段の生活がこういうスビト・フォルテやスビト・ピアノ、スフォルツァンドやアクセントに満ち満ちているわけだ。
また、相手の表情を観察できない盲人は、いきなり話題を変えたり、唐突に話し始めたり話し終えたりすることが多いのだろう。そういうときは相手を当惑させてしまっているだろう。言いにくいことを単刀直入に言ってしまって、自分ではそれに気づいていない、そういうこともしばしばなのだろう。
だが一方、人の声の変化には敏感であり、たぶん、見える人たちよりは多くの情報を声の変化から読み取っているだろうと思う。
さて、こういうことは、音楽作りにも直接間接に反映するだろう。メリハリノはっきりした音楽、ぱりっとしたしゃきっとした音楽、素早く場面が変わる演奏……、どちらかというとそういう物を私は好む。これが行き過ぎると、唐突なスフォルツァンドや急な沈黙を偏愛することになる。客観的に見て、こういう音楽家は、やはりバロック時代の音楽、そして、いわゆる現代音楽の演奏解釈を得意とするはずだ。
一方、音の陰影や表情の変化に多くの意味を感じ取ろうともするので、この面では印象派風の音楽、或いは逆に、表現主義の音楽に向いているとも言えるだろうか。。
こうして結局、私の作る音楽はどんどん味の濃い物となっていくのだろう。さてしかし、今後は薄味の演奏や、遠望するような展望するような、そんな音楽もできるようにしたいものだが。

「外人」に間違えられる話

私は両親も盲人であったせいか、見えないことをあまり苦にしてはいない。
しかし、やはり、見えたら良かったのに、と思うことがある。
それは例えば、遠くから近づいてくる人を観察できればいいのに、と思う時である。
前回述べたように、いきなり声をかけられて、返答に窮することがよくあるのだ。その数秒前から相手の方を見て、注意深く観察できれば、そんな窮屈なことになるはずはない。
が、とにかくいきなり遭遇した相手に質問されて、言葉に詰まってしまう。そんなとき、適切な言葉を捜している私は、たぶん懸命な表情を浮かべているのだろう。
それを見た相手の方が、「あなたは日本語、分かりますか?
」と尋ねたり、或いは、英語に切り替えて話そうとなさったりする。それでますますどう言っていいか分からなくなり、なにやらしどろもどろのことを口走ってしまう。それを聴いて、相手の方はもう完全に私が「外人」だと信じてしまうのである。
これは冗談ではなく、ほんとうにしばしば起こることなのだ。私の顔にも原因があるのだろうか。いや、そんなこともあるまい。
やはり、私のそのときの言動が異様であるのに違いない。
calendar
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< June 2017 >>
sponsored links
selected entries
categories
archives
recent comment
recent trackback
recommend
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM