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  • 2007.08.26 Sunday
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悲愴、第4楽章

 悲愴の終楽章は、周知のように、あの4度下降の旋律でいきなり始まる。調製的に、第1楽章の続きという印象を与える。前にも述べたように、『悲愴』は、バッハのマタイの主題をホ短調で提示した後、第1楽章の主部はロ短調であった。それが、あたかも葬送の場面を予感させるようなロ長調で終止する。その後、第2楽章がニ長調、第3楽章がト長調、。最初の雰囲気とは別世界のような明るい響きの内に推移する。ここはまるで、死に瀕した人が、その人生を思い出しているような、つまり、別の時間と空間を感じさせる。「私の人生にも、美しい思い出もあり、懸命に戦って名誉ある大成功をおさめたこともあるのだ」と言わんばかりだ。
 別の世界、と言ったが、第2楽章と第3楽章は、使われているモティーフの上では終楽章に結びついている。第2楽章のトリオは、調製もロ短調で、終楽章の主要主題をそのままなぞっている。第3楽章では、殆どの主要モティーフが4度下降を執拗なまでに強調している。4度下降、これはいったい何を意味するのだろうか。
  
私がこの終楽章をピアノ連弾版で弾いてみた時、すぐにぴんと来るものがあった。悲しげにゆっくり降りる4度。それは、『涙のパヴァーヌ』として知られるあの旋律、ダウランドのリュート・ソング「流れよ、我が涙」"Flow, My Tears”ではないのか。もちろん、この思いつきはあまりにも突飛である。16世紀末のイギリスと19世紀末のロシアを結びつけ得る根拠が何かあるのだろうか。たぶん、直接の証拠はないだろう。
 しかし、『涙のパヴァーヌ』の旋律はイギリスのみならず大陸にも広まった大人気歌曲だったし、悲しみを表す4度下降というのは、バロック時代を通じてひとつの定型となっていった。バッハもそれをしばしば使った。(カンタータ「嘆き、悲しみ」Weinen, Klagen"など)しかし、探索の糸はそこで途絶える。このバロックの伝統とチャイコフスキーを結びつける事実は思い当たらない。
 私は何度も何度も弾いてみながら、『悲愴』を味わった。しかし、弾けば弾くほど、この考えは打ち消されるどころか、強まるのみだった。我々はチャイコフスキーをロシアの作曲家という先入観で見すぎるのではないか。彼は、同時代のブラームス等と同じ様に、ヨーロッパ音楽の伝統を背負い、過去のアイディアを換骨奪胎し、その上で、自分が生きている現在の中で、それに新たな息吹を与える、そして、未来に向かって新しい問題点を示す、という風な、つまり、西洋音楽史の表通りを行った人として捉えなければならないのではないだろうか。
(続く)

チャイコフスキー 「悲愴」 連弾版 続き

今回は「悲愴」の第1楽章に注目したい。
まず、この楽章の全体は、アダージョの序奏を除いて、ロ短調と言っていい。終わりはロ長調ではあるが。
この交響曲全曲もロ短調で終わる。それなのに、冒頭の序奏だけはホ短調で始まるのだ。
しかも、その冒頭の旋律は、EF#g--F#、つまりミファソーーファである。この旋律は何かと訊かれれば、あのバッハのマタイ受難曲の冒頭の旋律以外の何者でもない。
続く2小節目のファソラーーソの所まで、マタイと全く同じなのである。マタイ受難曲はホ短調で始まるので、調製も同じということになる。
私はチャイコフスキーの専門家ではないが、ここを見る限り、作曲者は、バッハのマタイから出発して、「悲愴」を始めます、とわざわざことわっているかのように見えてならない。前回述べたように、「悲愴」Pathetiqueという語は「受難」Passionという語と親類関係にある。
ところで、このマタイのモティーフは、「悲愴」では序奏で提示された後、主部の第1主題としてそのまま受け継がれる。
このモティーフをさらに詳細に見るなら、バロックの音楽修辞学の見地から言って、上行して押さえつけられた音が2度下降する、この下降2度は、典型的な「溜息の音型」である。バッハの場合と同様、「悲愴」でも、これから起こる不吉な出来事を予示しているかのようだ。
これに対して、第2主題は天から降りてくるような下降音型で始まる、この上なくのどかな旋律である。あたかも田舎の田園風景を髣髴とさせる。
そして、Pが五つから、いきなりFが四つへと変わる展開部は、やはりこれをバロック以来の修辞学から見ると「戦争の音楽」というしかない。
急速に激しくぶつかり合う声部と声部、あたかも追跡また追跡、逃亡また逃亡の連続。
そして、主題の再現部が来る。しかし第1主題の再現は提示部とは全く違って、駆り立てられるようなリズムの押収の中で、実に慌しい。それは、執拗な同音反復の部分へとになだれ込む。
ここは、銃撃戦の末に兵士が撃たれ、傷付く情景を描いているとは言えないだろうか。
次いでその後に来る第2主題の再現は、調整こそロ長調に変えられているが、内容は最初とほぼ同じ。まるで、兵士が自分の故郷を思い出しているかのようだ。
そして、コーダ。下降音階のバスの上で、ゆっくりと上行する旋律、ここは弔いの場面のように私には思える。
このような解釈はいささか素人っぽく聞こえるかも知れないが、バロック時代から19世紀に到る、音楽表現手段、ヴォキャブラリーから見て、決して突飛な考えではない。そのヴォキャブラリーの変遷の中には、チャイコフスキー自身が戦争を描いた「序曲1812年」のような曲も含まれているのは言うまでも無い。

チャイコフスキー「悲愴」連弾版 続き

チャイコフスキーの一般的特徴だが、ダイナミックスの幅が実に大きい。
「悲愴」の連弾版にも、Pが五つからFが四つまで、現れる。オーケストラならばF四つにも現実的意味があろうと言うものだが、これだけの幅を1台のピアノで表現するのは殆ど不可能に近い。というよりも、あまり意味を成さないように思える。しかし、それがチャイコフスキーなのだろうと思い、
これを最初に発表した荻窪のカンゲイ間というサロンで、私達は思いっきり強弱を付けてみた。その結果は、やはり、フォルテが大き過ぎて、何人かの聴き手を辟易させてしまった。また、P四つ以下というのも事実上出せなかった。
しかし、だからと言って、強弱の幅を狭めて、ちんまりとまとめてみても問題の解決にはなるまい。
もっと深遠で本質的な解決法があるはずなのだ。物理的ではない、心理的なフォルテというものもあるだろう。そして、音量は大きくてもうるさくないフォルテというものもあるだろう。そして同じことは、ピアノの世界にも言えるだろう。
 ところで、「悲愴」という言葉はフランス語のPathetiqueの訳、ベートーヴェンの有名なピアノソナタの題名と同じである。
確かに初版譜にもすでにこのフランス語が書かれているが、もちろんチャイコフスキーはロシア語で考えた。ロシア語のこれに当たる言葉はここでは書けないが、、やはり同語源である。
ところが、ロシア語のニュアンスには「悲しい」という意味は無く、「感動的」というようなニュアンスであるらしい。
そういえば、この言葉の語源はPassionとも繋がっていて、「痛みをもって心を動かされる」という程の意味を含む。単なる「悲しみ」ではないのだ。
チャイコフスキーは初演後すぐに出版社にこの題名を告げているが、それは弟と語り合っていたときに二人で思いついた物であるらしい。
そのときチャイコフスキーは「この曲はあらゆる音楽家にとって謎になるだろう。」と言ったというのだが、確かに私もその謎に取りつかれてしまった。
この曲には実に驚くべき内容が盛り込まれているのである。
(続く)

チャイコフスキー 「悲愴」の連弾版

最近、いくつかのコンサートで連弾による交響曲を手掛けている。相手は山川節子。
そして、できるだけ作曲者自身によって編曲された物を取上げている。
これまでに演奏したのは、メンデルスゾーンの第4番「イタリア」と、チャイコフスキーの第6番「悲愴」である。
これらの曲の楽譜はいずれも初版譜、或いは、それに近い物を使用しているが、その貴重な楽譜をコピーさせてくださったのは、楽譜コレクターとして国際的にもこの人ありと知られている幅至さんである。
彼のコレクションの中には、私など目を見張るしかないような珍しい楽譜がたくさんある。特に、ベートーヴェンとほぼ同時代にフランスで活躍し、やはり後年は難聴に苦しんだオンスローの連弾用ソナタは、なかなか聞かせる名品であったし、マックス・レーガーが編曲した、バッハのブランデンブルク全曲の連弾版なども、いろいろな意味で尽きせぬ興味をそそられた。
しかし、チャイコフスキーの「悲愴」に関しては、それを音にしたときの衝撃は尋常一様な物ではなかった。
チャイコフスキーの円熟期の三つの交響曲(4・5・6番)にはどれも連弾版が存在するが、疑問の余地無く作曲者自身が編曲の筆を取った物は、この「悲愴」交響曲だけだそうだ。
しかしそのことは、音にしてみた瞬間に納得した。オーケストラ版とは全く異なる世界がピアノの音によって描き出されるのだ。
元々この音楽は対位法的、和声的、リズム的にこの上なく緻密精巧に書かれているが、その骨組みがピアノの音によってくっきりと浮き彫りにされる。さらには、打鍵楽器としてのピアノの特徴をフルに発揮させてもいる。オーケストラ版では楽器を変えて色づけされていた各声部、各モティーフは、ピアノ版では大胆に音域を変えられている。鍵盤楽器というものは、音域によって音色が派手に変わる。それを利用して、いわばピアノ的なオーケストレーションが施されているというわけだ。ここまでの芸当は、作曲者自身以外には技術的にも道義的にもなかなかできるものではない。
全体に、これはひとつの立派なピアノ曲として響くのである。それだけでも全く驚嘆に値するが、私の「悲愴」再発見の話はここから始まる。
(続く)
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