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  • 2007.08.26 Sunday
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人間も国も

本当はどうだったのか。毎年この時期になると浮かぶ疑問だ。日本の戦争は、62年前に終わったのか、それはまだ続いていたりするのかも知れないが、とにかく、あれは何だったのか。
で、毎年8月にはその関係の本を読み漁る。ずいぶん読んだような気がする。さらに、びっくり仰天したのは、戦時Sfというジャンルがあって、なかなか根強い人気があるということ。戦争を日本がもう一度やって、今度はいろいろ巧い方法を使って、そうして、今度はあんな惨めな日本でもなくて、戦争を上手に終わらせる、というような筋書きの空想ファンタジーだ。
結末はいろいろあるようだが、そのプロセスにおいては、アメリカをやっつける、というシーンが必ず出てくる。うーん、我々日本人が溜め込んでいる屈託、トラウマ…は思う以上に深そうだ。

 66年前に始まった、あのアメリカ相手の戦争に限って言うと、やはり、日本はちょっと惨め過ぎた。まず、いやに成るのは、そうとうなところまで、アメリカの謀略に乗せられて、それにのこのこはまっていった日本のナイーヴさ。それは、結局今もなお変わってはいないのだが。
たとえば真珠湾。
まずアメリカは、ドイツをなんとかしなければ、と思っていた。ほっておくと、ドイツはヨーロッパ全土を制覇する勢いだった。これを抑えたい。で、アメリカはいろいろ挑発して、ドイツを怒らせようとしてみたようだが、ドイツは賢くて、なかなかそれに乗ってこない。ところが都合のいいことに、日本がドイツと同盟を結んでくれた。この日本を挑発して怒らせれば、日本が戦争を始めてくれるかも知れない。そうすれば、それがドイツと戦う口実になる。日本にもこの状況に気づいた人たちがいて、なんとか流れを止めようとがんばったようだが、結果的には、ほぼアメリカの思うようになってしまった。アメリカにもいろいろな人がいて、考え方も千差万別だったから、一概には決め付けられないが、しかし、国の政策レベルでは、やはりそういうことだったようだ。
さらにうっとうしいことに、日本の機密暗号が、ほとんどアメリカに筒抜けだった事。真珠湾のことも、ミッドウェーのことも、山本五十六前線視察のことも、全部アメリカは知っていて、ほとんどいつも、先手を取られた。これではもう勝ち負けの問題でもなく、まして、「正義」とかの問題でもない。そして、原爆。アメリカはドイツがどんなに憎くても、やはり、同じ文化圏、ふるさとであるヨーロッパに原爆を落とす事はできなかったのではないか。ほとんど無抵抗の日本に2発も落とす必要はなかった。新兵器の実験、という感じがする。
世界大戦、戦略と戦略の衝突、それは、悪魔と悪魔の戦いだった。日本ももちろんいじましく悪辣でもあったが、それよりも以前に幼くて、お人よしで、小心で、…。
 さて、戦後まもなく、日本を占領したアメリカ軍は、日本全国のさまざまな階層の人々、2千数百人にインタビューを試み、日本人が何を考え、何を欲しているのか、どうなろうと思っているのか、理解しようとした。其のころのアメリカは、今のアメリカよりもクレバーであったらしい。そのインタビューは録音されて残されたが、しばらく前に公開され、我々も聴くことができた。で、当時アメリカが下した結論は、「日本人は何も考えていない」ということだった。うーん、そう言われても仕方がないのかもしれなかった。で、日本人が何も考えていないのは、おそらく、彼らが空腹だからではないのか。食料を与えれば…。ということで、学校給食が始まったりもした。さて、そうして、とにかく今や過食の時代になって、私たちは何を考えているのだろうか。国としての日本は、あのころよりも増しになったのだろうか。
 アメリカの謀略は今もなお続いているし、それに対する反抗も、世界中で起こっている。悪魔は退散してはいないのだ。
地球人である我々には途方もない理解力と澄んだ心が必要だ。
「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」

女性、平等、何のために話す?

8月9日、午前11時!!杉並公会堂小ホール。
ファニー・メンデルスゾーン・ヘンゼルの『一年』。
モダン・ピアノ(スタンウェイ)を使って、のソロの本番で、1時間もかかる大曲をやったのは、実に初めて(だと思う)。50年目の初体験!?
友人のMY・MKさん主催の、女性作曲家30人を取り上げる12のコンサートのひとつだった。
才能に恵まれた大富豪の令嬢ファニーちゃん。演奏も作曲も、男顔負けにこなした、というのであるが…。どうもそういう見方は好きになれない。
それと
関連して、女性作曲家の特集」というのが最後まで引っかかった。そういうことをすれば、逆に「女性蔑視」を強化することになっちゃうよ。
「あなたたち男には、女性の境遇は理解できないのよ」と言われればそれまでだが。
これはちょっと、障害者問題にも繋がる。たとえば、「盲人作曲家特集」をやったら?
数えてみたわけではないが、歴史上、盲人の作曲家は、たぶん女流さっきょ科よりも多いかも知れない。(晩年の10年を盲目で過ごしたヘンデルを入れるかどうか、といった瑣末な問題はあるが)
でも、そんな企画、考えただけで吐き気がする。
なぜ?
それが音楽的理由ではないから。人が盲目になることは、音楽とは別なところで起こる。私は自分が盲人であることを隠しはしないが、宣伝もしたくない。
それは、女性に関しても同じことだろう。
それを無理やりに当てはめようとすれば、どうしてもイデオロギッシュになる。われわれの世代は、いわゆる団塊の世代が振りかざしたイデオロギーに対するアレルギーが強い。
コンサートは音楽のため。武器は戦争のため。音楽が好きだから、コンサートをやる。戦争はいやだから、武器を捨てる。そのほかの理由は要らない。
「しかし、女性作曲家はまだまだ認められてないんですよ!これだけすばらしい人がいたというのにね」
そうかも知れない。社会は十分に啓蒙されてはいないし、世の中はいつだって不平等だ。
でもそれは…
人間の自我があるところ、常に偏りがある。「自分」という意識がある限り、不平等は常に生産されるのである、残念なことに。
だいたい、垣根がなければ差別もない。自分で垣根を作っておいて、それを壊そうと奮闘するのはナンセンスだし、エネルギーの無駄ではないか。

ところで、ファニー・メンデルスゾーンの『一年』。彼女はバッハ、あるいはその以前の作曲家から、同時代のリスト、ショパン、シューマン、マイアベーア、そしてもちろん弟のフェリックスなどなどまで、さまざまな「男たち」の作品や演奏を見てきた。心の目に映ったそれらの感動や興奮を、そのまま書き綴ったのがこの曲。彼女の日記のような作品、私にはそのように見えた。時代を変えよう、とか、新機軸を打ち出そう、とかいう曲ではない。どちらかといえば受身的に、彼女の生きた時代を一瞬一瞬噛み締めながら、大切にしている。その姿が美しい。練習しながら、その点に、ぐいぐいと引き込まれていった。
ただ、曲の内容、話の進め方はどうだろう。
「うーん、ちょっとねえ。まあ一見たわいなく、時に陳腐に見える箇所が多々あるように思えるけど…」
しかし…。
「女性は、何かを解決するために話すんじゃないのよ。自分の状況を相手と共感しあいたいのよ。男はいつも、それはこうすれば解決だ、とか、こうすれば簡単じゃないか、なんて知ったかぶりするけど、女はそんなこと聞きたいんじゃないのよ」
確かに、バッハやベートーヴェンが好むやり方は、問題の提示とその見事なる解決、というスタイルだろう。その要素が希薄だからといって、陳腐と決め付けてはいけない。誰にもないような表情やしぐさ、不快眼差し、そこにこそこの曲の良さがあるのだ。
私もそれを大切にしてあげたい。何のこだわりもなく、「愛情」という言葉が、すっと出てくる気がする。

14年目の発見

7月30日19時、一ツ橋大学学術センター8階ホール。
ヴァージナル(私が所蔵する親子ヴァージナル)と小型オルガン(I氏所蔵のポジティーフ)での独演会。
ハンス・コッター(1515年)からモーツァルト(1791年)の作品まで。
主に、16・7世紀の曲、私が得意とするレパートリーだ。
これを、今回は、ミーントーン、それも、かなり純粋なミーントーンで弾きとおした。モーツァルトでは、ちょっと厳しい響きもあったが、しかし、それも味わいの一つとして、鑑賞できる。最近の研究では、18世紀になっても、多くのオルガンは、ミーントーンのままだった、ということが分かってきた。もちろん、多少は変形されたミーントーンではあったのだが。
これでバッハを弾くと、いや、ブクステフーデでさえ、かなりの不協和音が生じる。しかし、作曲家はそれを予め作品の中に織り込んでいる、という場合が多い。いわば、一種の、きつめの香料となるのだ。コンサートは快調に進んだ。

しかし、事件は20時過ぎに起こった。アーサー・フィリップスのグラウンドを弾こうとして、私は、親子ヴァージナルの子供を親の上に乗せた。こうすると、二つの楽器はカプラーされ、、親の鍵盤を弾くと、子供も同時に鳴る。子供は4フィート楽器なので、8−4−の状態になるわけだ。
ところが、いったん、子供を親の上に乗せると、常にこの8−4−状態になり、これを解除するには、また、子供を親から下ろさなくてはならない。今まで私はそう信じてきた。この楽器を注文して14年になるが、今の今まで、そう思い込んでいたのだ。
「当時の楽器は不便なものですね。だから、ヴァージナルは滅び、チェンバロに取って代わられたのですね」などと、したり顔で解説までしていた。
ところが、である。曲を弾こうとして、ふと、妙な所に厚めのフェルトが貼ってあるのに気づいたのだ。子供ヴァージナルの底板手前の部分だ。
「これは、何だろう?」……
一瞬にして閃いた。子供を乗せたまま、それを手前に引っ張ってみた。2センチばかり、手前にずらすことができるではないか。
そして、そうすることで、カプラーは解除され、子供が乗ったままでも、親と子は、別々に鳴らすことができるのであった。
「ああっ!」
私は思わず大声をあげ、しばらく絶句!お客には何のことか分からない数秒間。
一瞬にして悟る、己の愚かさ、観察の足りなさ…
昔の人はちゃんと考えていたのだ。
なんとか、われに帰ってコンサートは続けた。早速この装置を使って演奏しようとしたが、親の方のジャックに長すぎる物があり、上野子供を動かすと引っかかることが分かったので、今回は断念した。が、次からは、いろいろ楽しいことができそうだ。

この楽器は、アメリカ・ニューヨークのメトロポリタン博物館にあるルッカースの楽器をかなり忠実に再現した物で、フィリップ・タイアーの作。
だが、もちろん、この種の楽器に使用説明書などはない。作者のフィリップも教えてはくれなかった。
いや、人を頼りにしてはいけない。自分で発見せねばならんのだ。それにしても、…。
私は悔しさと、将来の可能性への期待で、頭がいっぱいになっていた。

フーガの技法

「○○先生は、フーガの技法の演奏では、抽象的な音を出してください、とおっしゃいました」と、メンバーの一人が言った。Contrapunctus VIの練習中だった。
「えっ!」、正直、驚いた。私は、この対位法のパズルの中に、歌と踊り、鳥のさえずり(特にカッコーとナイチンゲール)、鍵盤的な指の喜び、そして、弦楽器の弓の喜びを見出しつつあるところだったからだ。
ある大チェンバリストが、これらのフーガが本来チェンバロ曲である、と「証明」した、センセイショナルな論文を発表して久しい。確かに、これを手だけで(オルガンのペダルを使わずに)弾いてみると、バッハの心憎い配慮がよく分かる。難解極まりない構造の、たとえばContrapunctus VIIでも、10本の指でちゃんと弾ける様に、見事に作られているのだ。この曲の場合、主題が拡大されて出てくるから、オルガンのペダルを使えば、面白い。しかし、それは本質的問題ではあるまい。十分に豊かな音量と持続力を持ったチェンバロなら、まったく問題なく弾けるからだ。弾いていて、楽しくさえある。
しかし、弾いている方は楽しくても、これを聴いて、構造が分かるように弾けるか、というと、ちょっと難しいと言わざるを得ない。やはり、弦楽器か管楽器を使いたくなる。で、合奏でやってみると、これがまた、実に楽しい。
ところが!、弦や管のどの楽器で弾いても、ときどき何かが余る。重要なフレーズが、ヴァイオリンやヴィオラの音域を越えることがしばしばなのだ。
うーーむ…
このころのバッハは、楽器の限界を軽々と超える。モンテヴェルディやベートーヴェンの後期と似ている。今、自分が使っているメディアの要領をオーバーするような内容を、平気で書くのだ。彼らは、若いときには、逆に、メディアの特性を熟知し、その限界を踏まえた、つまり、どこまでもチェンバロ的なチェンバロ曲、といったものを得意としていたのに。晩年には、そこから飛び出して、宇宙へと飛翔した、ということかも知れない。
しかし、勿論、それは、地面を忘れたということではない。音楽を抽象化した結果でもない。音はあくまで、天真爛漫に遊んでいる。しばしば、コミカルでさえあるではないか!。
この、対位法の見事な織物を、がくに入れたり、よそ行きの服を着せたりしてはいけない。

「われらと共にお留まりください」と、彼らは泣きながら頼んだ。彼は言った。「お前たちは、もう自分だけでやっていけるだろう。」

7月9日20時20分

「音楽は料理に似ている」と、彼はいつも思う。
それにしてもその味付けは単調だった。彼女の出す皿は2種類しかなく、一つの皿には唐辛子、ニンニク、生姜など、とにかく辛い調味料が横溢しており、もう一つの皿には砂糖、蜂蜜、バニラなどのとにかく甘い味が満ちていた。隠し味などはこれを一切用いず、そのような細かい味付けそのものを彼女は軽視し、時に軽蔑さえしているかのようだった。というより、もともとそういう味の感覚が欠如しているのだ、と彼は思わざるを得なかった。その欠如と引き換えに、いや、欠如しているからこそ彼女には、ある種の、人を感心させるに十分な貫禄があった。
そして、彼女が提供する料理のそれぞれの皿は人目を奪うに十分な、派手な盛り付けがなされていた。事実、注目の眼差しは彼女に集中した。
しかし、それらのことの一切は、彼にはどうでもいいことだった。
音楽は奏で続けられた。
スパイス60倍のインドカレー?辛さ爆発メキシカンタコス?激辛ケイジャン・ホット・チリ?そしてその後は、劇甘ダブル・ホイップ・ハニー・チョコレート?
「しかしこれでは窮屈なことになるぞ」と彼は思っていた。辛さにせよ、甘さにせよ、それだけではすぐに飽きが来る。やっている本人がまず飽きる。(当人はそのことに気づいていないのだが)対応策といえば、それらの味のヴォリュームをもっと上げることしかないのだった。それではいったんそのヴォリュームを上げ始めるとあとは際限がなくなってしまうだろう。
実際これまでにそのようなことが何度もあった。自分自身が食べられないほどのヴォリュームにまで、彼女は達しようとする。
そうすることが、彼女のプロ意識とどこかで繋がっていた。
しかし、そのこと自体が彼には、本質的に不快だった。
「そんなこといったって、お前も時に60倍のカレーや激辛チリを食べたくなるじゃないか?」と言う声がどこかでした。
その通りだった。そういうことがあればこそ、この仕事を引き受けたのではなかったか。
しかし、何かが違っていた。劇辛にせよ劇甘いにせよ、それが共感の上に成り立っていればいい。
切れば赤い血が出るというところで痛さを共感し合えるのであれば、どんなに痛くても耐えられる。
しかし、ひょっとして、……と思うだけで、彼の心は寒かった。
「ともかくも、このヴォリュームの暴走を抑えなければ、彼女は最後まで保つまい」と彼の心配は今やその一点に集中していた。

「音楽はまたトランポリンのようなものでもあるな」と彼はふと思う。クッションを感じながら、高く低く跳躍し、跳躍の後はぐっと沈み込む。方向をぐるぐる変えながら、 空中での無重力的な動きを楽しむ。
「クッションを与え続けねば」と彼は思った。「それが私の役目ではないのか」10人のメンバーは踊り続けた。その踊りには生気があった。それぞれの生活がある。それぞれの苦しみがある。しかし今はそれらすべてが音楽だった。

昔の夢、今の夢

中学を卒業した頃、山にこもって仙人の生活をしたい、と本気で真面目に考えていた。愛媛県ではそれが可能なように思われた。その状況は今も変わらない。80パーセント以上が山地である愛媛県では、人は海辺の僅かな平地や海岸近くに住んでいる。山には、殆ど誰もいない。縄文時代の狩猟採集生活ができそうなのだ。実際にやってみたわけではないので、「できる!」と断言できないのが残念。
で、これを実証してみたいという誘惑を、あの中学生時代から今に至るまで、常に感じてきた。
今回のツアーで松山の駅に降りたとき、まず、空気の匂いが他の町とはぜんぜん違うことに、心の安心を覚えた。
この違いは、ひょっとしたら、私の錯覚、思い込み、センチメンタリズム、エムプフィンドゥングザームカイト、食う寝るところに住むところ、パイポ・パイポ……なのかも知れないのだが、
でも、やっぱり違う。暖かい土の香り、辺りがコンクリート舗装の道なのにも関わらず、草の匂いがするのだ。これは、何だろう。松山を「捨てて」東京に出て以来、いつも、帰る度にこれを感ずる。
若い頃の私は、実はこれが嫌いだった。松山にはできれば帰りたくなかった。それが、40を過ぎた頃から、懐かしくなった。歳、というものか?。
しかし、それだけでもなさそうだ。懐かしい、それでいて、今までに聴いたことのない音楽、それが、私の演奏のテーマだが、
そのことを教えてくれるのは、やはりこの空気かも知れない。
それは確かにそこにあった。しかしそれは、われわれが生きている時間に属してはいなかった。それは、観念でもなく、経験の記憶でもなかった。むしろ、記憶は洗い流されつつあった。遠くで子供たちの声がする。その子供は私かも知れなかった。
50になっても、人の気持ち一つ理解できない私だが、この海に解けてしまえば、地球になり、宇宙に戻ることもできる。
愛媛の峻険だが、どこかやさしい山並みが、いつも私を誘っている。
かのブランデンブルク門は、意外にそんなところにあるのかも知れない。

3時13分

7年前、私も若かった。彼らも若かった。世の中は、ミレニアムの興奮がまだ冷めてはいなかった。新しい何かを作り出そうと、私たちは懸命だった。そして、無謀でもあっただろう。
 1980年代以来、音楽の演奏スタイルは、基本的に何も変わっていない、と説く教師が多い。革命は70年代に起き、それ以来、爆発は起こっていない、と言うのだ。
しかし、そうではない。われわれの中で、確かな革命は起こりつつある。われわれの今の演奏は、間違いなく、新たな次元に踏み込みつつある。
今回は、より穏やかに、しかし確信を持って、はったりの無い、謙虚な表現によって、それを言うことができる。
7年前に撒いた種は、確実に芽を出し、葉を茂らせている。

SN比

20時20分。
鰹のたたきに、太い骨が入っている。危なく飲みそうになる。でも、そこがこの店の好きなところだ。骨の際の、いちばん美味しいところを食わせてくれる。
とはいえ、やはり、骨は食べられない。食べてもいいけど、今の気持ちとしてはなんとなく、食べたくない。
これはつまり、音楽で言えばノイズに当たる。サウンドとノイズの比、SN比というのは、オーディオ機器の評価基準の重要な一つだ。
ノイズは多すぎてはならない。しかし、少なすぎてもいけない。自然の揺らぎ、弾み、命は、サウンドとノイズの際でこそ生まれる。
今日のあなたのSN比は、どのくらい?

(^^;;

18時54分。
かなりの重圧が彼にかかっていた。あちこちから大きな期待が集まっていた。
「もっと大きなチャンスを掴め!」という声。
「お前にその気がないなら、このチャンスは他の人のものになってしまうぞ!」
しかし、これまで培った友情と恩義を裏切ることは、彼にはできそうもなかった。
それは、彼の勝手な思い込みかも知れなかった。元来、重圧とかプレッシャーとか呼ばれているものは、ほとんどが本人の思い込み、あるいは、いわゆる心理的投影というものなのだろう。
そして、友情とか恩義とか言っても、それも、別種の思い込みなのかも知れない。
そうは分かっていても、彼はそこから逃げ出す気にもなれない。
ここは、大勇猛心を起こして、自分を大きくする以外に解決はないのだ。
そう思ったとたん、突如、体が麻痺したようになり、あちこちに走る激痛。
憂さ晴らしに、手当たりしだいに楽譜を見て、暗譜を始める。いつもそうだった。こうしていると、いくらか、安心できる。心理的恐怖を一時忘れることができるのだった。
しかし、大問題が手付かずで残っている。どうしたらいいのか、彼には分からなかった。

(^^)

6月2日、18時18分。
我が伴侶テオポリスへ。
雨の中、風の中、お前はいつも俺を支えてくれた。この世の誰よりも、お前は俺を知っている。俺の混乱した性格、癲癇、分裂、躁鬱が不思議に転換するような、俺の不思議な精神波動も、お前はいつもしっかりと受け止めてくれた。そうして、お前の方からはトラブルを起こしたことがない。
もちろん、俺はできうる限り、常にお前のことを気遣ってきたつもりだ。俺が手に入れられる最高の物を、お前に与えてきた。それでもなお、お前に対する感謝を表すには到底足りない。
特に、俺が音楽をするとき、心の中のカーテンをくぐって、別世界に入っていくとき、いつもお前は心頼もしき旅の友であってくれた。
舞台上で、多くの人々の気が殺到し、それが心のレンズを通って一点に集まり、俺の心臓が焼け焦げそうになる、そんなときにも、
お前は力強く俺を抱きとめ、優しく俺の熱を冷ましてくれた。
冬の寒さに俺の指が凍え、思うように音楽ができないときにも、お前は心の芯から温まるような優しく燃えるような声音で、俺を励ましてくれた。
俺も精一杯、お前に応えよう。体一杯に新しい音を満たし、お前と共に、あの測ることのできない時間を生きよう。
ありがとう、テオポリス!我が命のパートナーよ!

19時19分。
暴走する一匹の獣。私はこれを制御しなくてはならない。私のパートナーたちは、皆頼もしくチームワークもよくなってきている。知恵と力と決断力。忍耐と爆発を、もう何回か繰り返さねばならない。
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